耀光

打ち寄せて

汀を浚う白波の

乾く砂面に消える泡沫

 

波間を走る耀きは

思い出せない在りし日の影

 

風が凪ぎ

鴎が空を通り過ぐ

 

潮騒だけが響く辺に

目蓋を閉じる私の眼

 

消せぬ光が記憶なら

帰らぬ声は誰のもの

 

その輪郭をなぞっても

その輪郭は閉じたまま

 

遠く耳を打つ

別れのような遥かな汽笛

 

 

 

 

GRAPEVINE『停電の夜』について

GRAPEVINE『停電の夜』について。

人が住まう街には、光が溢れている。

報道が流れるスクリーン。煌々と文字を告げる看板。ディスプレイを過る無数の生活。

それらは光であるのに、私達の眼には、闇を切り裂く一条の力として感じられる事は無い。

それは私達が光に麻痺した結果か。或いは闇に不感した結果か。

光の在る処には、必ず人間が存在する。そして現代では、人間の存在する処は、闇の比喩を意味する。

世界は光を享けては居ない。光に眩んで居るのだ。

光の洪水に飲まれるとは、地底無き闇に溺れる事と同一だ。

 

『停電の夜』は、こんな歌い出しから始まる。

“奇跡は起こらない

それでかまわない

ぼくらは精一杯

朝を迎えに行く”――GRAPEVINE 『停電の夜』

 

GRAPEVINEは、「光」という存在から決して目を逸らす事の無い音楽家である。

それは、誤魔化しを容れない世界を音楽する人達である事を意味する。

濁流のような報道や実世界と、それに対するフィクションの空ろな逆上を、彼等が見逃す筈はない。

故に、彼等は歌い出しで、世界を睥睨し、虚構を唾棄する。

 

歌詞は続く。停電の夜の描写が重なる。

停電の夜を過ごす二つの存在は、その灯を交し合う。

音だけが流れる暗がりで、温もりと月光だけが、静かに確かめ合う。

“風や光でさえ

みんな口出しできずに夜に絡まっていた

世界はきっと こんな二つの灯を

今受け入れたんだ”――GRAPEVINE 『停電の夜』

 

光を失くした世界で、思い出す光が在る事を人は知る。

 

存在と存在を繋ぐ言葉が、存在と存在を分かつ様になって久しい。

街や世界は言葉に絡まっている。

“この火を ねぇ

その灯を消さぬよう

言葉はもう役に立たないよ

この手を繋いでいよう

Like we always do”――GRAPEVINE 『停電の夜』

 

確かめ合う灯だけが、絡まる闇を解く唯一つの光だ。

 

訪れ

訪れの

夢の小路を踏み行けば

人皆知らぬ黄昏の

棚引く影に暮れる街

 

声が行き交う露店屋で

小さな鳥がこう唄う

「お山を越えたらおっ母さん」

「お山越えたらお父っさん」

店屋の親父の滑々の

その額に見惚れては

此の耳朶を抓る俺

 

あれは嘗て

水溜で砕けた私の首だ

 

声が掠れる暗がりで

何時かの歌を口遊み

退くか進むか識らぬまま

来る人に向け会釈する

 

―思えば明日は何処へやら

―思えば明日は何処へやら

 

あれは本当に誰の仕業か―

 

夢の小路を踏み行けば

人皆知らぬ黄昏の

影揺れる街の夢の訪れ

 

 

 

流離

流されて

辿るがままに暮れる日の

雨に輪郭が緩む街

俯く人の傘は揺れ

平静の訪れ

 

濡れた足下に伏せた眼に

私を過る冷えた熱

戻らないもの程鮮やかなのは何故?

葉を撫でる風は地を目掛け

出口無き螺旋を描く

 

重ねた夢を捩り合い

燃え尽きた季節

 

壊れた約束は縺れた響き

交わした囁きがいつか

時を繋ぐまでの流離い

 

 

 

GRAPEVINE『雀の子』について

GRAPEVINE『雀の子』について。

この曲は、GRAPEVINEの愛の歌である。

田中和将は、愛を語る人ではなく、愛を生きようとする人だ。

愛の歌を作る彼の手つきは、普段料理を作らない父親が我が子を想って夜食を即席で作るような、ぶっきらぼうな優しさが滲む。

 

やおら調理は開始される。

 

“怖いもんはおまへん

ワレは何か知っとんか

ほんだら三十万円や

わては本気出しまっせ”――GRAPEVINE『雀の子』

 

“早よからオープン

四時からオープンでっせ

五時からハッピー

ハッピーアワーでんねん

わてらは放蕩中年

かましいなってきて

せやからどうせえっちゅうねん

今晩どうや? どうや? ええ?”――GRAPEVINE『雀の子』

 

具材を素早く拵え、鍋に火を点ける。

 

“そこのけそこのけ御馬が通るで(雀の子マイベイビー)

怒りと哀しみをぶつけたんねん

このザマを見ていけ”――GRAPEVINE『雀の子』

 

煮えくりかえる鍋を見ながら、彼は追想する。

 

“金は全部遣うた

連れはどっか逃げた

六時にオープンオープン

七時スタートでっせ

これから挽回したんねん

ヒマな兄ちゃん姐ちゃん なぁ”――GRAPEVINE『雀の子』

 

我が子は、拵えた意味に気づくか否か。

 

“辛いで 惨いで 痛ましいで (あんたもそうやレイディ)

わてと来て遊べや親のない子

歌にして饂飩食わしたる”――GRAPEVINE『雀の子』

 

どうして子は、彼の背中を見てきたではないか。

滋味豊かな饂飩は、しかし彼にしては珍しく、味が濃い。

 

そろそろ饂飩が完成する。

 

“そこのけそこのけ御馬が通るで(雀の子マイベイビー)

憂き世の現を暴いたるで”――GRAPEVINE『雀の子』

 

子を呼ぶ彼の声が、聞こえる。

 

 

揺曳

呼びかけて

折りたたんだその指が

夏の膚

遡るたび蘇る

夢の漣に震えてる

 

行きしなに

置き去りにした名が遠く

青い瞳の引力で

時を俄かに塗り潰す

 

去り際の

後ろ姿の静けさは

眼差しに棲む棘だった

 

風に

追憶は揺れ

影を追う記憶

 

眠れぬ夜の始まりの

その饒舌を塞ぐ腕

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

GRAPEVINE『Ub(You bet on it)』について

GRAPEVINE『Ub(You bet on it)』について。

この曲は2019年発表の『Gifted』の止揚的消化の結実である。

『Gifted』に託された「若い私」<以下、便宜的に"彼"と称す>が、終に己の出番を認識する。その一局を描いた曲だ。

『Gifted』で彼は世界を眺める視座から動くことを固辞していた。

それは、彼が世界を喪わぬ為に採った、措定的処置であった。

 

世界へ飛び込めば、世界を見喪う。世とは、そういう構造の円体だからだ。

 

では、彼はどうやって『Gifted』を消化したか。

措定的と見做されていた視座を、宿命的視座と看取したのである。

彼はようやく、自らも虚構という世界舞台に立ち混じる事を了解する。

しかし、虚構の舞台役者としてではなく、虚構の後見として、である。

“誰もがそれに飛びついた

おれはどうでもいい気がした

腰を掛けて腹を決め

やおら立ち上がる日を待つ

次はスペードだ 賭けてもいい”――GRAPEVINE 『Ub(You bet on it)』

 

小暗い黒衣の奥、漆黒の肉眼が光る。

 

“世界中が敵だと感じたなら

選ばれたってことさ

呆れるほど独創的なプレイスタイルで

今ひっくり返しちまえ”――GRAPEVINE 『Ub(You bet on it)』

 

彼は、世界を眺める事は、同時に世界に眺められる事だという事実を、『Ub(You bet on it)』の脚本家から予め伝言されていた。

 

 

“新しい果実には当然

熟す時が訪れる

彼等はもう頬張る寸前 いやもう遅い

既に食べてしまったんだろう”――GRAPEVINE 『Ub(You bet on it)』

熟れずして果実を狩った者の、その味に飽き足らぬ声。熟れ過ぎた果実を狩る者の、未だ見ぬ麗しさを求めて彷徨う足取り。

“熟れすぎたのは 是か非か”――GRAPEVINE『Ub(You bet on it)』

彼は、役者が果実を頬張る表情を、具に眺める。

 

『Gifted』で「若い私」に“おまえの価値をくれないか”と虚構への参加を促した声は、『Ub(You bet on it)』の最後、こう囁きかけた。

“世界中が素敵だと感じたなら

あと一息ってとこさ

呆れるほど革命的なアティチュードで

きみを守り抜いてやる

ひっくり返すのさ

賭けてもいいぜ Baby”――GRAPEVINE 『Ub(you bet on it)』

 

 

"素"の敵を感じたなら、"素"の味方もわかるだろう?

――「きみを守り抜いてやる」

 

「若い私」の声が、世界に届いた証である。