GRAPEVINE『停電の夜』について

GRAPEVINE『停電の夜』について。

人が住まう街には、光が溢れている。

報道が流れるスクリーン。煌々と文字を告げる看板。ディスプレイを過る無数の生活。

それらは光であるのに、私達の眼には、闇を切り裂く一条の力として感じられる事は無い。

それは私達が光に麻痺した結果か。或いは闇に不感した結果か。

光の在る処には、必ず人間が存在する。そして現代では、人間の存在する処は、闇の比喩を意味する。

世界は光を享けては居ない。光に眩んで居るのだ。

光の洪水に飲まれるとは、地底無き闇に溺れる事と同一だ。

 

『停電の夜』は、こんな歌い出しから始まる。

“奇跡は起こらない

それでかまわない

ぼくらは精一杯

朝を迎えに行く”――GRAPEVINE 『停電の夜』

 

GRAPEVINEは、「光」という存在から決して目を逸らす事の無い音楽家である。

それは、誤魔化しを容れない世界を音楽する人達である事を意味する。

濁流のような報道や実世界と、それに対するフィクションの空ろな逆上を、彼等が見逃す筈はない。

故に、彼等は歌い出しで、世界を睥睨し、虚構を唾棄する。

 

歌詞は続く。停電の夜の描写が重なる。

停電の夜を過ごす二つの存在は、その灯を交し合う。

音だけが流れる暗がりで、温もりと月光だけが、静かに確かめ合う。

“風や光でさえ

みんな口出しできずに夜に絡まっていた

世界はきっと こんな二つの灯を

今受け入れたんだ”――GRAPEVINE 『停電の夜』

 

光を失くした世界で、思い出す光が在る事を人は知る。

 

存在と存在を繋ぐ言葉が、存在と存在を分かつ様になって久しい。

街や世界は言葉に絡まっている。

“この火を ねぇ

その灯を消さぬよう

言葉はもう役に立たないよ

この手を繋いでいよう

Like we always do”――GRAPEVINE 『停電の夜』

 

確かめ合う灯だけが、絡まる闇を解く唯一つの光だ。