GRAPEVINEの新曲、『Gifted』がリリースされた。
およそ二年ぶりの新曲、ほんとうに嬉しい。
直近のアルバム『ALL THE LIGHT』はとても清々しいサウンド、人生をこなしていく日常への、"愛ある眼差し"(バイン必須のワード、光、とも取れるか)を感じる作品で、聴いていると心が自由に広い場所へ羽ばたいていくようだった。
それから二年のあいだに、世界は大きく変わった。
コロナウイルスの蔓延は現在も止まず、人は初めて経験する危機に疲弊している。
そんななかで発表された『Gifted』が、リスナーの胸に何を語りかけてくるのか、とても楽しみだった。
早速聴いてみたが、まずそのサウンドの美しさに圧倒された。
無垢な悲しみを具現化したような、言い知れぬ不穏さを射抜いたような、透明で聡明なサウンドなのだ。
そして歌詞をじっくりと聴いてみる。
いつも思うが、GRAPEVINEの楽曲の歌詞は、「こういうことを歌っています!」と一括りには出来ない。カテゴライズすることの網目から漏れる意味にこそ逃してはいけない大切な"気付き"が隠されている。
それでもやはり全体を通して感じることはある。
光の届かない世界、明かりに溢れているのに光を感じられない社会がまざまざと脳裏に浮かんだ。
日々の生活では滑稽なほど笑顔に満ちた顔や明るい声がテレビやラジオから聞こえたかと思えば、まるで役者のように次の瞬間には悲痛な表情で事件を報道する。
私個人はそのような光景には欺瞞を感じていた。
これは報道に限った話ではない。
学生生活や青春と呼ばれる時期を美化し称揚する姿勢の映画やコミックが多いことも疑問だっだ。
すべての若者がその時期を振り返ったときに苦しさや辛さがこみ上げないかといえばもちろんそんなことはなく、せめて青春のせいで傷を負うこともあるという事実を伝える作品がもっと存在する世の中であって欲しかった。
だが明るい報道や輝いた作品は裏返し、実人生に光は僅かしか射さない現実に対する人間のはかない復讐なのかもしれない。
話が逸れたが、そんな社会に対しての個人的なまなざしと、『Gifted』の歌詞の内容がとても重なっていると思えた箇所があった。
“舞台は例のノリで虚構を演じている” ――GRAPEVINE『Gifted』
このフレーズを耳にした時、虚構か、まさにその通りだなと納得してしまった。
社会を一つの舞台になぞらえるならば、現代社会はまさに虚構を生きている。
そして『Gifted』のなかで唯一光を見いだせた個所がこのフレーズの前後を含めた四行だった。
“おまえの価値をくれないか
舞台は例のノリで虚構を演じている
そこでさ
おまえの出番を待っていたんだ”――GRAPEVINE『Gifted』
己の感受性を封じ込めて生きる"若い私"の語りから始まる『Gifted』だが、唯一この四行だけは別の誰かの視点で語られている気がするのだ。
虚構に染まらない、あるいは馴染めないその若い感受性の目を瞑らすのではなく、その眼力で虚構を僅かな間でもいいから黙らせてみろ、虚構の見ている夢を醒ませてみろ、そんな意味が託された四行のように感じる。
おまえは感受性の鋭敏で傷つくこともあるだろう、だがその鋭敏さは何にぶつかっても鈍麻しなかっただろう?
それこそおまえの価値なのだ。与えられた価値なのだ。
『Gifted』のなかから誰かが私を見つめて語る声が聞こえる。
その時この曲がなぜこのタイトルであるかが分かる気がしてハッとする。
『Gifted』から注ぐ淡い光、それは神様から差し伸べられた光ではなく、誰かの眼差しの光だ。人間の光だ。