宇多田ヒカル『PINK BLOOD』について

宇多田ヒカル『PINK BLOOD』について。

『PINK BLOOD』は、一人の人間が独立不羈に歩む姿を活写した曲だ。

人が自分の価値、自分の意味を捉えるには、自分自身を見つめるより他に方法がない。

そして、自分自身の価値は、いつも己の愛するもののなかにだけ存在する。

宇多田ヒカルはその事を、はっきり自覚し得た。『PINK BLOOD』を聴いて、私はそう確信した。

 

“他人の表情も場の空気も上等な小説も

もう充分読んだわ”――宇多田ヒカル『PINK BLOOD』

人間は、想像という頭蓋のなかでのみ完結する行動を所有している。

想像には、現実と自己を結び付ける緊張した箍もなければ、立ち還るべき記憶も存在しない。

他人の表情や場の空気、小説中の人物の振る舞い、それらは全て現れであって、表情の理由、空気の内訳、振る舞いの意味も、事実は傍観者には決して掴めない。いや、本人すら決して掴めない代物だ。

そもそも、人が何かを"読む"という行為は、対象のなかに己を探る行為に他ならない。

不安の種も、不穏の気配も、悲劇の前触れも、すべてが「私」という怪物が拵え上げた魔の異名である。

肉体を動かさずに為された行動は、亡霊の如く形振り構わず脳中を疾駆する。

そして、頭蓋に拒まれた行動は、反射しやがて意識を蝕む。

 

想像はいつまでも美しい。現実はいつも勇ましい。

 

“私の価値がわからないような

人に大事にされても無駄

自分のためにならないような

努力はやめたほうがいいわ”――宇多田ヒカル 『PINK BLOOD』

私の価値を見抜かれたと感じる為には、最初に己自身が自らの価値を見出しているのが順の道理である。そして、自身を涵養しない努力とは、いつも強制の形で現れる。

 

“傷つけられても

自分のせいにしちゃう癖

カッコ悪いからヤメ”――宇多田ヒカル 『PINK BLOOD』

彼女に傷が刻まれたのは、彼女が自身を現実に晒したからではない。現実が彼女に接触したからである。人間は素顔を現実に晒すことは出来ない。素顔を知っているのは、唯一人胸壁という存在だけだ。人間の素顔とは、己の素顔を知らぬ苦悶の表情以外の何物でもない。

 

“あなたの部屋に歩きながら

床に何個も落ちる涙

自分の価値もわからないような

コドモのままじゃいられないわ”――宇多田ヒカル『PINK BLOOD』

この場合の"あなた"とは、宇多田ヒカル自身を指す。

 

“心の穴を埋める何か

失うことを恐れないわ

自分のことを癒せるのは

自分だけだと気付いたから”――宇多田ヒカル『PINK BLOOD』

強いられた空白に、彼女は自ら愛の種を蒔く。

 

肉体に沈着な血が巡るとき、想像の濁りを、創造が終に消す。

乾坤一擲、精神が己を試す時である。

 

“サイコロ振って出た数進め

終わりの見えない道だって

後悔なんて着こなすだけ

思い出に変わるその日まで”

 

“サイコロ振って一回休め

周りは気にしないで OK

王座になんて座ってらんねえ

自分で選んだ椅子じゃなきゃダメ”――宇多田ヒカル『PINK BLOOD』

熟慮断行という実行に、人間らしい剛毅の一切は宿る。

 

『PINK BLOOD』は、歩む宇多田ヒカルの足取りである。

“誰にも見せなくても

キレイなものはキレイ

もう知ってるから

誰にも聞かなくても

キレイなものはキレイ

もう言ってるから”――宇多田ヒカル 『PINK BLOOD』

彼女は繰り返し、こう自身に問い掛けながら、ただ前を見つめて生きる。

 

欠け

心のパズル満たすのに
埋める欠片はここには無くて
瞼を閉じてみて描きみて
し、あ、わ、せ、という言葉の重み
過去と未来の秤に掛ける
手放すことと選ぶこと
過去と未来に怖じ気付き
唯真ん中で拱く手
ひとつ幸せを築くには
何にせよ
手が動かねば
渇いた心を充たすには
何処にせよ
情熱の権化と出会わねば
こんな夜を愛すには
如何にせよ
私を抱いて眠らねば

眼差し

あなたが私の傍らで
睦まじく笑む温みより
いつか失う悲しみが
此の心に影を射す

繊細なものほど心して
見つめるべき筈なのに
傷つくあなたの眩しさに
視線が思わず眼を逸らす

現という幻と
正面切ってぶつかって
打ちのめされてひび割れた
身を繕って得たものが
強さと呼べるものならば
引き換えに去る物がある
あなたの目はそう語る

どうかあなたはそのままで
私の稚さを見透かして

不意に揺れた木の葉が
私の肩を擽った

少女

夢で視た

若草色の草原で

祈りを捧げるその少女

 

空はどこまでも続いてて

遮るものは何もない

すずしい風に揺れるブラウス

 

とおい昔に読んだ

なつかしい物語では

花を摘んでいたっけか

 

幼いわたしは確か

その横顔が好きだった

 

あのときなにか言いかけて

そのとき鳥が羽ばたいた

どうしてわたしは、あんなに泣いてしまったのだろう?

ただ 鳥が遠ざかっただけなのに

 

少女が静かに眼を開けて

やさしい瞳で空を仰ぐ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

花影

桜散る川沿いの街灯下

強いて遠ざけて

不意に手繰り寄せてた面影が

私の夢を揺らすから

蘇らない唇の

乾いた熱に宿された

果てない夜を思い出す

 

その歩幅に気付いても

立ち止まるには遅過ぎて

散る花びらに目が眩む

 

思うより

その瞼は冷たく

その首すじは蒼かった

 

記憶のなかを吹き抜ける風

 

振り向けば

何処にも君は居ない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

藪内亮輔『海蛇と珊瑚』について

藪内亮輔氏の歌集『海蛇と珊瑚』は、私の青春を一挙に終止させた作品だった。

彼の歌は、進むべき方位を失くした夢を私から拉し去った。

“虹、といふきれいな言葉告ぐることもうないだらう もう一度言ふ”――『海蛇と珊瑚』藪内亮輔

私が『海蛇と珊瑚』で最も強い印象を受けたこの歌には、自身の宿命を見定めた者だけが持つ静けさがある。

人生という一つの刃が作者の身体へ食い込む毎に、歌の眼差しは削がれ、透徹してゆく。

濁りを容れぬ藪内氏の歌は、彼が現世とぶつかり、現世が彼の裡に残したものを彼自身がひとすじに掬ったものの結実である。

人類の辞書から永久に抹消出来ぬ言葉には、必ず長い影が尾を曳いている。歌人は抗うことも出来ず、これ等の言葉に選ばれる。

悲惨に感傷を交えず歌うとは、それは新たな悲惨を産む行為であり、己れから苦痛を引き剝がす作業は、いずれ苦痛をふたたび纏う約束に他ならない。

切実を歌っても、切実に歌っても、現実が振り向くとは限らない。

諦念は、人の未来を擽るように蝕むだけだ。

 

破壊された夢は亡霊と成って意識に棲む。

 

歌うとは、未来に覚えた希望を過去で割ることである。

 

“夕立を駅ターミナルで回避して冷水を買ふ 傘はかはずに”――『海蛇と珊瑚』藪内亮輔

進むべき方位を失くして初めて、進まざるを得ぬ方位を人間は獲得する。

 

醒めた眼で視る世界は、一つの光景だ。