宇多田ヒカル『Passion』について

宇多田ヒカル『Passion』について。

私はこの曲に、海と死の予感を抱く。

『Passion』のイントロを聴くと、はっきりと海が、海に沈んでいくひとりの人間の姿が脳裡に浮かぶのだ。

死が光を失った世界から訪れつつあることが、刹那に了解されるその瞬間が。

そしておそらく、死に近づきつつあるその人物は、自ら進んでそれに向かっている。

『Passion』を聴いていると、頻りに夏目漱石の小説、『夢十夜』を思い出す。

夢十夜』の第七夜、あの何とは知れぬ不穏な気配が、今しも耳を伝うような、その魅惑に、私は聴くたび駆られる。

彼女はかつてインタビューでフランスの哲学者ベルクソンの、“音楽とは経験や感覚の予告である”という言葉を引用していたが、私にとってまさに『Passion』はそのような曲だ。

ベルクソンのこの思想は、彼の著作『意識に直接与えられたものについての試論』、通称『時間と自由』で詳述されている考えである。ちくま学芸文庫版の訳で私が忽せに出来ないと思う個所を以下に引用しておく。

“音楽の音が、自然の音よりもわれわれにより強く働きかけてくるのも、自然が感情を表現するにとどまるのに対して、音楽のほうはわれわれにその感情を暗示するからである”

“また、われわれが抱く感情ならどれでも、それが因果的に惹起されたものではなく暗示されたものであったならば美的な性格を帯びるだろう”

“芸術家がわれわれに暗示する思考や感情が、彼の経歴の一部を多かれ少なかれ表現し、要約している”

“芸術家は、われわれをかくも豊かで、かくも人格的で、かくも新奇な情動へと導いて、了解させようもないものをわれわれに感得させることを目指している”

“したがって芸術家は、みずからの感情がまとう諸々の外的顕現のうちでも、われわれの身体がそれに気づくや否や、わずかなりとも機械的に模倣してしまうような顕現を選んで固定し、そうすることで、これらの顕現を喚起した定義しがたい心理的状態のなかへと、もう一度われわれを一挙に移行させる”――ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』ちくま学芸文庫

 

鳴った音の裡に、実現を孕む情熱が眠っている。

 

この曲の歌詞は、「過去・現在・未来は合一して存在している」という認識を基調としていると思う。私の予感した海での死にそれをあてはめると、死に際して、「過去・現在・未来」が走馬灯として現れる瞬間を指すのではないか。

闇が手招くその時、人は何を想うか。

歌詞のみを眺めると、「海」の匂いも「死」の気配も微塵も感じられない。悲しみよりもむしろ時間とともに生きる自身へのいつくしみを感じる。

しかし、音楽として捉えようとすると、それらは抗しがたく死の予感となって私の精神をざわつかせる。

音楽が経験や感情の暗示ならば、この曲が私に告げるものは、果たして私の絶望なのか。

予感は論理では語れない。

強い予感ほど不合理なものはない。

『Passion』が私に抱かせる死の予感は、つめたい金属に皮膚が触れたときのような、つめたさが不快でもあり快感でもある、その感覚に近い。

死への陶酔とは、果たして美との紐帯なのであろうか。

 

海は、死を無限に孕んだ場所である。

 

『Passion』に息づく予感。

それはあまりにも明瞭に、私の脳髄に結像する。